金曜の午後四時、日本橋高島屋の前期展示が閉じる。翌朝には後期が始まり、同じ会場の景色が別の花、枝、器へ切り替わる。第107回草月いけばな展「いける。生きる。」は、10月21日から26日までの六日間に、家元作品と合作・個人作を合わせた512作品を予定している。数字の大きさより気になるのは、そのすべてを一度に並べるのではなく、前期と後期に分けて見せることだ。植物が静止した完成品ではなく、限られた時間に立ち上がる表現であることが、会期の構造そのものに表れている。
前期と後期のあいだにある一晩
前期は10月21日から23日、後期は24日から26日。各日午前10時30分に開き、前期最終日は午後4時、後期最終日は午後6時に閉じる。入場は閉場30分前までだ。会場を訪れる日が一日違えば、同じ展覧会名の下で出会う作品群も変わる。公式発表が示す512作品は会期全体の予定数であり、一つの巨大な集合を一度に眺めるための数字ではない。
いけばなは、切られた植物を用いながら、重さや水分、光の向きから逃れられない。枝はしなり、葉の表裏は照明に応じて変わり、花は開く。前期から後期への切り替えは、作品を新しくする運営上の都合だけではなく、植物の時間に合わせて表現を更新する仕組みにも見える。これは公式説明を踏まえたRareDexの読みだが、会期を二つに分けることで、完成という言葉が少し短くなる。
後期から見るなら、前期の再現を探す必要はない。まず目に入った一作で、花材がどこから立ち上がり、器の縁をどのように越え、空いた場所をどこへ残したかを追ってみる。作品数が多い展覧会ほど、一つずつ数えるより、一本の茎や一枚の葉が空間の向きを決める瞬間に立ち止まる方が、草月の自由さは具体的になる。
花器の履歴へ、別の手が花を入れる
特設エリアでは、家元・勅使河原茜が制作した陶器とガラスの花器を用い、草月会員が花をいける。器を作った手と、植物を選び配置する手が分かれているのが面白い。陶土の厚み、釉薬の色、ガラスの透明さや口の狭さは、花材が置かれる前から動きの条件をつくる。そこへ別の人が枝や花を入れることで、花器は完成品のまま保たれるのではなく、次の判断を受け止める場所になる。
陶器なら、土の量感に細い茎を添えるのか、太い枝をぶつけるのか。ガラスなら、水と茎を見せるのか、透明さを葉で遮るのか。公式資料は個々の組み合わせを先回りして説明しない。だから会場では、植物の種類を当てる前に、器の重心と花材の重心が同じ方を向いているか、互いに押し返しているかを見る余地がある。
一階正面では10月14日から26日まで、同展に合わせた特別展示も行われている。八階の会場へ急ぐ前、あるいは見終えた後に一階へ戻ると、百貨店の通路と展示空間で、植物がつくる距離の違いを比べられる。この記事の画像は会場写真ではなく、主催者が配布した第107回展の公式メインビジュアルだ。前年度の展示写真を今年の景色として流用せず、現在の会期を示す文字と色の構成だけを掲げる。
初めていける人も、百年の手前に立つ
今回のテーマ「いける。生きる。」は、2027年に迎える草月創流100周年の手前に置かれている。草月は1927年、勅使河原蒼風によって始まった。長い履歴を持つ流派の展覧会でありながら、今回は初出品者のための席も設ける。百年へ向かう言葉を、すでに名のある作家だけで閉じず、初めて公の場に植物を置く人へも渡している。
初出品の一作に、長い説明や大きな材料があるとは限らない。それでも、器を選び、一本を切り、正面を決めるまでには、その人が植物と過ごした短くない時間がある。512という総数を支えるのは、同じ型を反復することではなく、別々の手がそれぞれの迷いを引き受けることだろう。初めての席と家元の花器が同じ展覧会にあることで、伝統は完成した様式ではなく、判断を受け渡す仕組みとして見えてくる。
第107回展は日本橋高島屋S.C.本館八階ホールで、10月26日まで。一般1,000円、大学生以下は無料と案内されている。後期へ入る10月24日以降に訪れるなら、作品数の多さを急いで消化せず、器の口元、枝が曲がる場所、葉の裏が見える角度を一つずつ確かめたい。最後に一階の特別展示へ戻ると、花はもう別の距離にいる。前期から後期へ変わったのは作品だけではなく、見る側が植物に近づく順序なのだ。
