会期は9月5日から10月20日まで。会場は北斎館に隣接するガラリShowcaseで、入場は無料だ。河﨑海斗の個展「うつろい、留める」の中心には、本展のために制作された「画狂ノ菊」が置かれる。題材になった巴錦は、小布施で江戸時代から育てられてきた古典菊で、花弁の内側は深紅、外側は黄金色を帯びる。植物の色をそのまま複製するのではなく、その二面性を金属の表面へどう移すかが、この作品の出発点になっている。
北斎の絵から 立体の一輪へ
北斎館が所蔵する晩年の肉筆画《菊図》の中央には、巴錦と考えられる菊が描かれている。河﨑はその一輪を、絵画の輪郭をなぞる対象としてではなく、異なる素材で改めて考えるための入口にした。平らな画面に置かれた花は、鋳型、重さ、光の反射を得て、見る人の周囲に距離をつくる。絵の中で保たれてきた花が、立体になった途端に影を持ち、近づく角度によって別の表情を見せる。
北斎が小布施を訪れた晩年に残した自然の線と、現在を生きる作家の手つきは、同じ時代のものではない。それでも両者のあいだには、植物を単なる装飾に閉じ込めず、形と色の変化として見つめる視線がある。過去の絵を敬遠して遠くに置くのでも、現代の技法で上書きするのでもなく、花のかたちを別の素材へ渡す。その距離感が、この展示の静かな緊張になっている。
裏と表の色を 金属で受け取る
「画狂ノ菊」で河﨑が用いるのは、塗料で色を足す方法ではない。純度の高い銅を熱し、急冷して表面の酸化膜を発色させる緋銅という技法を軸に、金属そのものから赤を引き出す。素材の配合、熱、冷却の条件が少し違えば、表面に現れる色も変わる。季節の光や株の状態によって見え方を変える花と、制作の過程で色が定まる金属は、似ているようで同じではない。その差を隠さないことが、植物を作品へ移すときの誠実さになる。
花弁の内外で色が分かれる巴錦は、正面だけで読み切れない植物だ。作品もまた、近くで見る赤、少し離れて受け取る暗さ、照明を受けた縁の明るさが一つに固定されない。花を知識として分類するより先に、歩いて角度を変えたときに色がどこで入れ替わるかを見つけたい。金属の硬さは花の柔らかさを失わせるためではなく、短い開花の印象を別の速度で保つために働く。
小布施の菊が 持つ二つの時間
巴錦は、土地で受け継がれてきた栽培の時間を持つ一方、北斎の絵の中では江戸後期の視線として残っている。河﨑の新作は、そのどちらかだけを引用するものではない。生きた菊は季節ごとに咲き方を変え、絵は紙の上で時間を止め、鋳金は熱と酸化の工程を通って別の持続を得る。三つの時間が並ぶと、植物を残すことは標本化することだけではないとわかる。見た記憶を、異なる素材の変化へ預けることもできる。
河﨑は金魚や蛙など、身近な生命を鋳金と樹脂で扱ってきた作家だ。公式サイトでは、生命を模倣するのではなく、素材、環境、身体、知覚の関係から存在の条件を組み直す姿勢を掲げている。今回の菊も、花の姿だけを精巧に写すための題材ではない。植物、絵画、金属、見る人の距離を同じ場に置き、何を生きたものとして受け取るかを静かに問い返す。
北斎館の隣で 現在の匠を置く
ガラリShowcaseは、北斎ゆかりの町で、地域や小布施に関わる作家、北斎を現代の素材で捉え直す作家を紹介する場所として運営されている。館で歴史に触れたあと、隣のギャラリーで現在の作家の一輪に向き合うと、町の文化は保存された過去だけではなくなる。菊の原画、育てられてきた土地、鋳金の新作を行き来することで、同じ植物が異なる時代の手の中でどう形を変えるかが見えてくる。
旅先で花を見る時間は、名所を一つ増やすためだけのものではない。素材の色がどこから生まれたのか、作家がどの場所の記憶を持ち込んだのかを知ると、展示室を出たあとの町の景色も少し変わる。小布施の菊を起点にしたこの個展は、庭や畑の外で植物の時間を受け取るための、小さく確かな寄り道になる。
10月20日まで 一輪の前で立ち止まる
開館は10時から16時までで、水曜は休み。会期中には9月23日の営業と翌24日の休みという例外もあるため、出発前には主催者の案内を確認したい。展示を見るときは、作品の正面を急いで決めなくてよい。花弁の裏表を思いながら少し横へ回り、光が変わる位置で金属の色を見直す。そこには、咲いている菊とは違うのに、植物の移ろいを忘れさせない時間がある。
